PR

冨岡剛──誰よりも走り、誰よりも信じた“ラグビーの真ん中”を生きる

人物
記事内に広告が含まれています。

全身泥だらけで走り続けたひとりの男、冨岡剛さん。

テレビで偶然観た大学ラグビーの熱戦に心を動かされ、野球からラグビーへと進路を変えました。

走り、考え、信じる――そのすべてをグラウンドに捧げてきた男の物語は、現役引退後も“ラグビーの真ん中”で続いています。

選手として、そして指導者として、ラグビーが教えてくれた生き方を体現し続ける冨岡剛さんの歩みを振り返ります。

きっかけは“テレビの中の戦い”だった

富岡剛  前半32分、左オープンに展開した神鋼は左ウイングの富岡が東芝・黒田のタックルを振り切りトライ。撮影日:1993年01月10日。

中学生だった冨岡剛さんがラグビーを始めることになったきっかけ。

それは、たまたまテレビで観た大学ラグビーの早明戦でした。全身泥だらけになって走り、ぶつかり、トライに向かって一直線に進む選手たちの姿に、「これだ」と思ったそうです。

すぐに野球からラグビーに転向を決意。

夢中になるのに、時間はかかりませんでした。

努力の意味を知った高校ラグビー部時代

ラグビーは簡単なスポーツではありません。

ルールも複雑だし、コンタクトも激しい。

でも、冨岡さんはとにかく練習が好きだったそうです。

キックの感覚を掴むまで何百本も繰り返し、体が覚えるまで黙々と走った毎日。

その“反復”が、後のラグビー人生を支えてくれることになります。

青山学院大学で育った“考えるプレー”

青学ラグビー部では、フィジカルだけでなく“脳でプレーする”ことを学びました。

試合の流れを読んでポジショニングを変える。味方のフォロー、相手の意図、そして次に起こることを予測する。

冨岡さんは、まるでフィールドの“指揮者”のように、試合をデザインしていく選手へと成長していきました。

神戸製鋼で本物の“勝負”を知る

神戸製鋼コベルコ・スティーラーズに入団すると、ラグビーはさらに“本気の世界”に変わります。

プロとして、勝つためだけに動く毎日。

体調管理、食事、メンタル、すべてにおいて“自分との勝負”が始まります。

そんな中、冨岡さんは初年度から得点王に輝き、誰もが認める“チームの得点源”となりました。

71得点という記録と、その重み

国立競技場での決勝戦。

冨岡剛という名前が全国に知られるようになったのは、そこで記録した“1試合71得点”という数字でした。

どんな場面でも冷静にキックを決める。1本1本に込めたのは、“任された責任”だったそうです。

試合を観ていた人の記憶に残るのは、スコア以上に“静かに闘志を燃やす”冨岡さんの姿でした。

“ゴルゴ”と呼ばれた集中力

感情を一切見せず、淡々とプレーするその姿から、冨岡さんは“ゴルゴ”の異名を持つようになります。

本人は笑いながら「そんなに怖くないよ」と言っていましたが、プレースキックのときに周囲の空気が一変するのは確かでした。

真剣な人がいるだけで、その場の空気は変わるんだと教えてくれるような、そんな存在でした。

引退しても、ラグビーは終わらなかった

28歳で引退を決めた冨岡さんは、母校・青学の監督として“指導者”の道へ進みます。

そこで目指したのは、“答えを教える”のではなく、“自分で答えを考えられる選手を育てる”こと。

試合の反省も、作戦会議も、常に選手たちに考えさせる。

口数は多くないけれど、確かに選手たちは成長していったのです。

“ラグビーが教えてくれた生き方”

撮影:1997年12月28日 <第50回全国社会人ラグビー準決勝>神戸製鋼対三洋電機戦で相手をかわす神戸製鋼・冨岡剛(左)。@秩父宮ラグビー場。スポニチ東京写真部。

冨岡剛さんがよく口にするのは、「ラグビーは人生だ」という言葉。

相手をリスペクトし、仲間を信じ、自分の力を信じてボールをつなぐ。

ひとりではゴールできないスポーツだからこそ、“人との関係”がすべてだと語ります。

その考え方は、今も変わっていません。

まとめ:冨岡剛という人が、今もラグビーを体現している

国立の歓声も、ロッカールームの静けさも、グラウンドに響く足音も、すべてが冨岡剛さんの記憶の中にあります。

そして今、その記憶を“行動”に変えて、後進の育成や新たな分野の挑戦に注いでいる。

彼の背中には、いつだってラグビーがあるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました